大相撲春場所で三回目の優勝を果たし、21場所ぶりに大関復帰を決めた照ノ富士。一時は序二段まで番付を下げながら、見事な復活でした。
21場所ぶりに大関復帰の照ノ富士!波乱万丈の復帰を支えたものとは?
今日は奇跡の復活劇を果たした、照ノ富士を深掘りしていきます。
目次
照ノ富士のwiki的プロフィール!
照ノ富士のWiki的プロフィール!
名前:照ノ富士 春雄
本名:ガントルガ・ガンエルデネ
出身地: モンゴル人民共和国・ウランバートル
誕生日:1991年11月29日
身長:192cm
体重:178Kg
所属部屋:伊勢ヶ濱部屋
得意技:右四つ・寄り・極め出し・小手投げ
モンゴルからの相撲留学を経て角界入りした照ノ富士ですが、17歳になるまでスポーツとは無縁だったそうです。
学業成績も優秀で飛び級を認められ、17歳で技術大学に合格しましたが、両親の反対を押し切って日本への相撲留学を決断、横綱・白鵬関のお父さんジグジドゥ・ムンフバトと縁があり、2009年3月26日に来日して鳥取城北高校に編入しました。高校3年次の全国高等学校総合体育大会相撲競技で、団体メンバーの一人として優勝に貢献しました。
2010年にまたまた白鵬のお父さんの紹介で間垣部屋に入門、初土俵は翌5月の技量審査場所でした。13年3月場所限りで間垣部屋が閉鎖されると、伊勢ヶ濱部屋に移籍、その2場所後には新十両に昇進が決定というスピード昇進!
2015年翌春場所は新三役、小結の地位を通り越して関脇昇進、続く夏場所では12勝3敗で初の幕内最高優勝を果たし、5月27日の番付編成会議および理事会において、満場一致で平成生まれ初の大関が誕生しました。
ちなみに初土俵を踏んでから関取に昇進するまで名乗っていた「若三勝」の四股名は、入門時の師匠である間垣親方が大関時代まで名乗っていた「若三杉」にちなんでいます。
新十両昇進と同時に四股名を今の師匠、伊勢ヶ濱親方と、現役時代は伊勢ヶ濱部屋の所属だった照國という2人の横綱にちなんだ「照ノ富士」と改めます。
順風満帆に見えた相撲人生でしたが、それからは試練の連続でした。
2015年秋場所以降、特に膝のケガや病気に苦しむのでした。満足に稽古ができないまま出場してはまた休場を繰り返し、番付は下がり続けました。2017年九州場所で大関陥落し関脇へ、2018年初場所で関脇から十両へ転落します。そしてさらなる試練、糖尿病、C型肝炎、腎臓結石という内臓疾患にも苦しめられます。
2018年6月25日に名古屋場所の番付が発表正式に幕下への陥落が決定しました。大関経験者、幕内最高優勝経験者が幕下に陥落するのはこれが史上初でした。
それから約1年後の2019年春場所は、どん底からの再出発序二段48枚目で復帰。世話をしてくれる付け人はいなくなり、大関時代は200万円を超えていた月給もなくなり、観客もまばらな午前中、黒まわしにちょんまげ姿、まさに裸一貫で土俵に上がりました。
そこから12場所。一度も負け越さず、再び番付を上げて「24時間、ずっと相撲を考えて、できることをやっている。大関復帰だけを見据えてきた」と語りました。
勝率:.581 最高位:大関 幕内優勝:3回
殊勲賞:3回 敢闘賞:3回 技能賞:3回
照ノ富士の復活劇はなぜできたのか?
2021年春場所は2度目の大関昇進を懸けた「大関取り」の場所となりました。12日目に9勝目を挙げて、「三役で直近3場所33勝」の昇進目安に到達しましたが、直前場所が9勝で昇進した前例はないため、伊勢ヶ濱審判部長は昇進に関して「相撲が全部終わってから」と話すにとどめました。
その後も白星を重ねて12勝3敗で取り終え、千秋楽では照ノ富士と貴景勝の直接対戦!照ノ富士が土俵際まで追い込まれるものの、逆襲の末、押し出しで貴景勝を破り、4場所ぶり3度目の優勝を果たしました。関脇以下の地位での3度の優勝は史上初。序二段陥落からの大関復帰は史上初の快挙でした。
どん底の照ノ富士を支えたもの、それは「もう1度、どこまで自分が通用するか試したい」という思いでした。稽古が再開できるまでに回復すると
「そうか、番付を上げて行く楽しみを、もう一度味わえるじゃないか」
と自らを奮い立たせます、究極のポジティブシンキングですね!
番付が下がると、一部のタニマチ(後援者)は離れて行きましたが、変わらず支援を続けてくれたタニマチもいました。人の優しさを知ったことで、謙虚になれたという照ノ富士。かつては奔放な発言が多かった照ノ富士ですが、再起後は一転して発言も慎重になりました。どん底からの復活は、故障を治したこともありますが、心の成長も大きかったようです。
そして、応援してくれる周囲の人々のためにも相撲を取り続けようと思ったといいます。関取復帰に向けてウエイトトレーニング、ウォーキングで体力を作り、摂生に努めました。かつては相撲界でも一、二を争う酒豪でしたが、2020年初場所での関取復帰に向けて断酒までしました。
2018年3度目の膝の手術をした頃はトイレに一人で行けないような状態で、さすがの照ノ富士も心が折れ、何回も引退を申し出たそうですが、「まずは体を治せ。やめるのは、やれることをすべてやってからだ」と師匠・伊勢ヶ濱親方は慰留したそうです。そんな師匠の言葉に「どうせケガや病気は治さないといけない。まずは体を万全の状態に戻そう」と現役続行を照ノ富士も決断!
奮闘する照ノ富士を支えたのは師匠だけでなく、伊勢ヶ濱部屋の仲間たちも照ノ富士を支えてくれました。兄弟子にあたる安治川親方もその1人です。「筋肉が落ちないように、体を動かせよ」と親身になってアドバイスしてくれました。
付き人を長く務めた元幕下駿馬(しゅんば)の中板秀二さんの存在も大きかったといいます。心が折れかけた元大関を、そばで励まし続けた存在です。「元々相撲に熱心で常に目標を立てて実行してきた。色々苦しんで、取り組む姿勢が戻ったんです」と中板さんは語ります。
そしてもう1人、2020年7月場所の復活優勝に貢献してくれたのが、かつて付き人を務めていた同門の照強です。
14日目、正代に敗れた照ノ富士は、朝乃山に2敗で並ばれてしまいます。続く結びの一番で朝乃山が勝つと優勝という一番で、照強が奇襲「足取り」で見事に止めたのです。「自分の星どうこうより、援護射撃の気持ちが強かった」と取組後のインタビューで語っていました。
まさに伊勢ヶ濱部屋ファミリーの協力があったからこその、照ノ富士の復活劇と言えるでしょう!
照ノ富士の他に大関から陥落して、また大関へ復帰した力士は?
照ノ富士のほかに大関陥落後、またまた大関へ復帰した力士はいるのでしょうか?
1969年名古屋場所より現在の「2場所連続負け越しで関脇に陥落、直後の場所で(取組日数による現行の規定で)10勝以上を挙げた場合は特例で復帰できる」とする規定が定着し、この現行規定の下で大関特例復帰を果たした力士でいうと、汐ノ海、三重ノ海・貴ノ浪・武双山・栃東・栃ノ心・貴景勝の7名です。
この特例によらずに通常の昇進基準によって大関復帰を果たしたのは魁傑と照ノ富士の2名だけです。照ノ富士の大関復帰は魁傑以来、44年ぶりです。
この中でも照ノ富士の大関復帰は、大相撲の歴史に残る快挙と言われます。
その理由は大相撲の歴史の中で、十両以下に落ちた力士が大関に戻るのは昭和以降初めてだからです。
照ノ富士のまとめ!
いかがでしょうか?
かねてから「目標」と公言していた大関復帰を果たし、期待されるのはやはり「綱とり」。最後に来場所以降の意気込みを、照ノ富士は力強く語りました。
「やっぱりここまで“来ちゃった”ので、最後まで全力を出し切って、もう一段「上」があるので、そこを目指して頑張りたいです。(横綱は)なりたいと思ってなれるものではないのでね。努力を重ねて、それが結果に現れて認めてもらう事ができたら最高の形です。だからこそ、より一層、今より倍以上の努力しないといけないなという気持ちです」
最後までお読みいただき、ありがとうございました。